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牧野信成 (今橋城主) : ウィキペディア日本語版 | 牧野信成 (今橋城主)[まきの のぶしげ] 牧野 信成(まきの のぶしげ、生年不詳 - 1529年7月3日(享禄2年5月28日))は戦国時代の東三河地方(愛知県東部)の武将・国人領主。通称は田蔵・田三・田三郎。三河物語では、伝蔵。牧野成時(古白)の子。母は不詳。吉田城(今橋城)主(所在地は愛知県豊橋市今橋町)。 == 事績 == 三河国東部(愛知県豊川市と豊橋市に含まれる地域)の有力国人であり、初代今橋城主であった成時の子である。永正3年(1506年)の父の討死後に牧野氏の手を放れた今橋を回復し大永年間初期には城主を継いだ。異説に兄とされる牧野三成(成三・田蔵左衛門尉)が無嗣で戦死したため、兄の跡を嗣いだものともいう。 大永2年(1522年)に今橋城の名を吉田(よしだ)城に改めた(一説によると城を奪われた「いまはし」の名が「いまわし(忌まわし)」に通じ縁起が悪いからという)というが、「宗長手記」では、大永4年(1524年)の項に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永6年(1526年)の項に「三河国今橋牧野田三」とある。城とは記載していないので地名の可能性もあるが、通常、城名が変更されれば地名も変更になることが多いため、やや疑問がある。 享禄2年(1529年)には一族・牧野右馬允(成勝)に命じて宝飯郡牛窪(豊川市)に牛久保城を築造させた。しかし、同年に西三河岡崎城主松平清康の進攻を受け、城下の下地合戦に敗れ、居城今橋城も落城、信成も一族70余名と共に戦死した。また、大名家の牧野家が本姓を清和源氏と改称したのに対して、信成子孫の系は牧野氏出自の田口姓を称した。なお、下地合戦・今橋落城を天文元年(1532年)とする異説が存在し、これによれば信成の没年も天文元年になるとする。
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